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東京地方裁判所 平成元年(ワ)14241号 判決

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

理由

一  請求の原因1、2記載の事実は当事者間に争いがない。

二  《証拠略》によれば、被告の原告に対する診療経過、原告の症状の変遷等について、次の事実が認められる。

1  被告は、昭和六一年三月一一日の初診時に、原告に、顔面蒼白化、皮膚乾燥化、苔癬化等の症状があり、痒みが強く、アトピー性素因すなわち小児喘息の既往があつたことなどから、アトピー性皮膚炎であると診断し、両手用にステロイド外用剤であるパンデル軟膏五グラムを処方し、同月一四日にもパンデル軟膏の同量を処方した。また、同年四月一六日、原告のIgEリスト値(アレルギーに対する過敏体質の目安になる免疫グロブリンの値、この値が高ければ、アトピー性皮膚炎などが増悪しやすい。)を測定した結果、正常値が三〇〇ないし四〇〇であるのに対し、一九〇〇と非常に高かつたことから、被告は原告がアトピー性素因が非常に強く、難治性の慢性疾患であるアトピー性皮膚炎であると確診し、副作用に配慮しながら長期間にわたる適切なステロイド外用剤の投与による薬物療法及び生活指導が必要と判断した。

被告は原告に対し、同年四月一六日は顔面用にステロイド外用剤であるロコイド軟膏一〇グラムを、両上肢用にパンデル軟膏一〇グラムを処方した。被告は、右処方に当たり、顔面用と両上肢用を区別して使用するように指示した。

2  被告は、その後、昭和六一年四月二一日から最終受診日である同六三年一二月一三日までの診療の際に、請求の原因2記載のとおり、原告の症状の経過観察をしながら、顔面用薬剤としてステロイド外用剤を処方した。被告は、右処方の際に、顔面用以外の薬剤を顔面に使用しないように注意し、使用方法として朝と夕方風呂上がりの二回患部に使用するように指示した。

3  原告は、右2の受診期間中、身体の一部にアトピー性皮膚炎の軽い症状があつたので、被告の診察を受けていたのであるが、その間症状は概ね良好に維持されており、被告から処方された右ステロイド外用剤を使用したために症状が悪化したり、ステロイド性皮膚炎の症状が発現したことはなかつた。

原告は、最終診察日の昭和六三年一二月一三日に、勤務先を退職し被告診療所への通院が困難になることから、被告に対し、通常よりも多めに薬剤を処方することを依頼した。そこで、被告は、原告の一日当たりの使用量がこれまでと同量であるとして計算し、請求の原因2(三)(6)記載のとおり通常の約二倍の量のステロイド外用剤を処方した。その際、被告は、原告に対し、使用部位に注意するとともにこれまでと同じ量を使用すること及び症状に変化があつた場合は直ちに来院するように指示した。

4  原告は、平成元年一月から右処方のステロイド外用剤を従前と同じ方法で使用していたが、それまでよりも効き目が悪くなつた印象があり、使用量は多少増加する傾向にあつた。

5  原告は、平成元年三月ころから徐々に顔、手足に赤い丘疹が出現し、顔が痒いことから、同月二五日、住居近くの個人医院「モンビルクリニック」を受診したところ、ステロイド性皮膚炎の疑いの診断を受け、非ステロイド外用剤であるスタデルムクリームの処方を受け、同年四月一二日、同月二四日、同月二八日の三回同院で同様の処方を受けたが症状は改善しなかつた。

6  原告は、同年三月二七日、横浜市大病院を受診した際、アトピー性皮膚炎とともに、顔面に、赤い丘疹、一部にきび様一部癒合、鱗屑及びステロイド誘発性酒査皮様皮膚炎等が認められ、同年四月五日には赤紫色膿疱疹が多発していることなどからステロイド性皮膚炎と診断された。

同病院の担当医師は、右診察の時点でステロイド外用薬を使用すれば、一旦は症状が軽快するが悪循環に陥つてステロイド性皮膚炎が悪化して難治性となると考え、リバウンドを覚悟の上で顔面用に非ステロイド外用剤であるスタデルムクリームの処方をした。

原告は同年五月中に四回同病院を受診したが、顔面の赤色丘疹、赤斑が著明のため、同年六月一三日から同病院に入院し、周期的に顔面発赤の増悪、軽快を繰り返しながら徐々に軽快し、同月三〇日退院したあと、同年七月中にも二回同病院を受診した。

7  原告は、同年八月二四日、財団法人「警友病院」を受診し、アトピー性皮膚炎(全身)、ステロイド性皮膚炎(顔)の診断を受け、同月二五日丘疹が顔面から頚部に著明であり、数か月の通院加療が必要であると診断された。

8  ところで、原告は、前記のとおり、平成元年三月になり症状が悪化したのであるが、被告には全く相談せず、同年五月八日に至り初めて、電話で被告に対しステロイド性皮膚炎が発症したことを告げた。被告は、原告に来院するように求めたが、原告はこれを拒絶した。

右のとおり認められる。

右認定の事実によれば、被告は原告に対し、アトピー性皮膚炎の治療に当たつて、昭和六一年四月から二年半余にわたつてステロイド外用剤を処方し、原告は、平成元年三月ころステロイド性皮膚炎に罹患したというべきである。

しかして、原告の右ステロイド性皮膚炎の発症の機序は必ずしも明らかではないが、被告による右ステロイド外用剤の処方との間に、因果関係がないとまで断言することはできない。

三  そこで、被告の原告に対する治療についての過失の有無を検討する。

1  《証拠略》を総合すると、以下の事実を認めることができる。

(一)  アトピー性皮膚炎は、患者の年齢により特徴的な臨床症状を示す、急性、亜急性、慢性の強い痒みを伴つた湿疹であり、難治性の皮膚疾患である。青少年・成人期の皮疹が最も頑固で治療に抵抗性があるとされている。家族的、遺伝的素因が原因として背景にあるとされているものの、今日でも病因は必ずしも明らかではなく、そのため、確立した治療法は存在しない。その治療は、痒み、炎症などの皮膚の症状を改善することを目標とする対症療法が主体である。適切な外用療法を行つて、痒み、炎症などの皮膚症状を軽快させ、自覚症状を軽減させ、病巣を略治状態に保つことにより、自然治癒、自然寛解する時期を待つことが大切とされている。

(二)  ステロイド外用剤は、優れた抗炎症作用を有し、アトピー性皮膚炎の外用療法の中で最も有用かつ重要であり、今日その治療のためには必要不可欠なものとされている。しかし、アトピー性皮膚炎が慢性に経過する皮膚疾患であり、ステロイド外用剤も長期にわたり使用されることが多いため、その使用法を誤ると、局所的副作用としてステロイド性皮膚炎を起こすことがある。

そのため、アトピー性皮膚炎が難治性であること、ステロイド外用剤の薬効が著しいことなどから、アトピー性皮膚炎の治療のためには、副作用に注意しながらもステロイド外用剤の使用が必須だとの意見が存在する一方で、ステロイドの副作用を懸念して、ステロイド外用剤の使用に消極的な意見も存在するなど、ステロイド外用剤の実用性については、医学上、必ずしも意見の一致を見ていない。

(三)  我が国では現在まで二〇種類以上のステロイド外用剤が認可され使用されているが、これは皮膚症状に軽重があるのでそれに合わせて必要十分な効果を有する薬剤を選択して使用するためである。

現在我が国で使用されているステロイド外用剤の抗炎症作用の強弱すなわち臨床効果の強弱は五段階(最強、強・強、強、中、弱)に分類されている。副作用の生じ易さはある程度臨床効果の強弱と比例しており、高い効果を有する薬剤ほど副作用が生じ易いというのが通例である。

そこで、副作用発生の危険を避けるためには、皮膚症状の程度に応じて右分類に従い、最も適当なステロイド外用剤を選択して使用することが必要である。

被告が原告に対し顔面用に処方したステロイド外用剤は、右五段階の分類では、ロコイド軟膏が中、デキサンクリームが弱、ヴェリダーム・メドロール軟膏も弱である。

被告は、原告の顔面のアトピー性皮膚炎の治療について、局所副作用が生じやすいことを考慮して当初から弱いステロイド外用剤であるロコイド軟膏を使用し、昭和六一年八月以降は最も弱いステロイド外用剤であるデキサンクリーム及びヴェリダーム・メドロール軟膏に切り換えて、これを使用してきた。

(四)  現在、日本において、数種類の非ステロイド外用剤が市販されており、アトピー性皮膚炎の治療にも使用されている。それは副作用の点では安全性の高い外用剤である。しかし、非ステロイド外用剤は、抗炎症作用すなわち効果の点ではステロイド外用剤とは明らかな差があり、非ステロイド外用剤のみで治療できるアトピー性皮膚炎はほとんどなく、ステロイド外用剤で炎症症状を抑えた後の維持療法、局所副作用の生じやすい顔面の治療等に用いられており、あくまでステロイド外用剤の補助的存在にとどまるものである。

右のとおり認められる。

2  右認定の事実に基づき、被告が原告に対するアトピー性皮膚炎の治療にあたつて、医師としての注意義務に違反したか否かを検討する。

右認定の事実、ことに、被告は、昭和六一年三月一一日の初診時に、原告の症状及び既往歴からアトピー性皮膚炎であると診断し、その後の検査から、原告はアトピー性素因がきわめて強く、難治性の慢性疾患であるアトピー性皮膚炎であると確診し、副作用に配慮しながら長期間にわたる適切なステロイド外用剤の投与による薬物療法及び生活指導が必要と判断したこと、そして、被告は右診断に基づき、原告に対し、顔面用にステロイド外用剤を処方するに当たつて、局所副作用が生じやすいことを考慮し、原告の症状の経過観察をしながら、かつ、原告自らが処方する際には使用部位に注意することなどを指示した上、昭和六一年四月から同年六月までは、右五段階分類の二番目に臨床効果の弱い部類に属するロコイド軟膏を処方したのち、同年八月から昭和六三年八月までは、最も臨床効果が弱く副作用発現の恐れの少ないデキサンクリーム及びヴェリダーム・メドロール軟膏を処方したこと、その間、原告のアトピー性皮膚炎の症状は概ね良好に維持されており、被告から処方された右ステロイド外用剤を使用したために症状が悪化したり、ステロイド性皮膚炎の症状が発現したことはなかつたこと、また、前記のとおり、アトピー性皮膚炎の治療はあくまで患者にステロイド外用剤を処方しながらその効果を確認していく対症療法であることなどからすれば、被告の原告に対する前記認定の顔面用ステロイド外用剤の処方が不適切であつたということはできないし、また、その使用量及び期間が必要の程度を超えていたとまでいうことはできない。

なお、被告は、昭和六三年一二月一三日、原告から勤務先を退職して通院が困難になるので通常よりも多めに薬を処方するよう依頼され、通常の約二倍の使用量にあたるヴェリダーム・メドロール軟膏四〇グラムを処方しているが、その際、原告に対し、症状に変化があつた場合は直ちに来院するように指示したことが認められるのであつて、患者の都合を考慮しかつ症状に変化があつた場合は直ちに来院するように指示した上で、通常の二倍程度の量を処方することは、主治医の裁量として許容される範囲内にあるというべきである。

なお、その後、原告はステロイド外用剤の効き目が悪くなつたと感じるなど症状の変化があつたにもかかわらず、被告の指示に従わず、直ちに被告の診療所に通院していない。

3  原告は、顔面のアトピー性皮膚炎患者の治療に当たる医師としては、本来ステロイド外用剤を処方すべきではなく、処方するとしても使用量五グラム、使用期間一〇日間程度に限定し、以後は非ステロイド外用剤や抗ヒスタミン内服薬の処方によつて治療を行い、酒査皮様皮膚炎などのステロイド外用剤の副作用を生じないようにする注意義務があり、仮に、右期間に限定したステロイド外用剤の処方をしない場合は、早期に副作用の発見ができるように少なくとも一週間に一回程度は来院させて経過観察をしてステロイド外用剤の副作用を生じないようにする注意義務があつたと主張する。

しかし、顔面のアトピー性皮膚炎についても、非ステロイド外用剤の抗炎症効果が十分とはいえない現状では、その症状によつてはステロイド外用剤の処方が必要な場合が多いのであつて、本来ステロイド外用剤を処方すべきではないとまでいうことはできない。

また、確かに、《証拠略》によれば、顔面へのステロイド外用剤の処方について使用量五グラム、使用期間一〇日間を目安とし、これ以上の使用は極力避けるとの専門医の見解が存在していることが認められるが、この見解によつても、必ずしもそれ以上の使用が一律に許されないものとは解されないし、右期間を経過後も症状が改善されない場合にはステロイド外用剤の処方を継続することが必要な場合もあることは否定できないから、医師に法的義務として、ステロイド外用剤の処方を使用量五グラム、使用期間一〇日間程度に限定し、以後は非ステロイド外用剤や抗ヒスタミン内服薬の処方によつて治療を行う注意義務があるとまでいうことはできない。

さらに、右期間に限定したステロイド外用剤の処方をしない場合は、早期に副作用の発見ができるように、少なくとも一週間に一回程度は来院させて経過観察をしてステロイド外用剤の副作用を生じないようにする注意義務があるとの主張についても、患者の症状には差異があり、また患者の都合によつては通院できない場合も存するし、医師の側で来院を確保する方策もないのであるから、これを医師の注意義務として措定することは妥当ではない。

したがつて、医師の注意義務に関する原告の右各主張はいずれも採用することはできない。

4  以上によれば、被告の原告に対するアトピー性皮膚炎の治療に過失があつたということはできない。

そうすると、原告の本訴請求は、その前提を欠き、その余の点につき判断するまでもなく理由がないことになる。

五  よつて、原告の請求は理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 坂本慶一 裁判官 西崎健児)

裁判官三木勇次は転補のため署名押印することが出来ない。

(裁判長裁判官 坂本慶一)

《当事者》

原 告 甲野花子

右訴訟代理人弁護士 新保克芳

被 告 村岡謙二

右訴訟代理人弁護士 本橋光一郎 同 城内和昭 同 横山 渡

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